御由緒
上杉神社
【御祭神上杉謙信公】
天正6年(1578)、3月13日、戦国の名将上杉謙信公は越後の春日山城にて49歳で急逝した。その遺骸は城中不識庵に仏式を以て鎮祭された。景勝公が会津を経て米沢に移封されるに当たり、御堂を米沢城内に移して仏祭を厳修した。明治の世を迎え御堂のまま神祭に改め、米沢藩中興の名君鷹山公を合祀して上杉神社と称し県社に列し、1876年(明治9)には新たに神殿が成り、遷座祭を行った。1902年(明治35)、往時の勤皇の功により別格官幣社に列せられた。
(鷹山公は新たに摂社として松岬神社を創立して正面濠の外に鎮座)
先年の神社制度の改革によって社格を廃して現在に至る。
1919年(大正8)米沢市大火の際本殿以下ことごとく類焼し、1923年(大正12)米沢出身建築界の泰斗伊東忠太博士(文化勲章受章者)の設計により現在の神殿を始め一切を竣成した。境内は旧米沢城址本丸跡でその6割を占め、およそ6300坪、境域をめぐる堤上の桜花はお堀に映じ陽春4月の例祭には一段に美観を呈する。
例祭は4月29日(歿年3月13日を太陽暦に換算)。
上杉神社再建に当たり、家祖謙信公、米沢藩初代藩主景勝公、重臣直江兼続、9代藩主鷹山公の遺品・遺墨等を中心に収蔵、展示する稽照殿が創設された。
摂社 松岬神社
1902年(明治35)、上杉神社から上杉鷹山公を分祀して、米沢城の別称・松岬城に由来する社号を「松岬神社」とし、社殿は1912年(大正元)に建立された。1923年(大正12)に米沢藩初代藩主である景勝公を合祀、1938年(昭和13)には景勝公の重臣である直江兼続と、鷹山公の師・細井平洲先生、鷹山公の藩政改革を補佐した功臣・竹俣当綱、莅戸善政を合祀し、祭神は六柱となった。
境内には、鷹山公が隠居した際、次代の藩主治広公に贈った藩主の心得3か条「伝国の辞」の石碑が建っている。
- 例祭/4月30日
- 秋季大祭/9月第4土曜
- 月次祭/毎月9日
【上杉鷹山公】
宝暦元年(1751)~文政5年(1822)
米沢藩9代藩主。高鍋藩主秋月種美の次男として誕生(母方の祖母が4代藩主綱憲公の娘)。宝暦10年(1760)8代藩主重定公の養子に迎えられ、明和4年(1767)17歳で米沢藩15万石の藩主となる。
窮乏甚だしかった米沢藩を、大倹約令・産業開発・藩校興譲館の創立・政務の革新などで再建し、江戸時代随一の名君として知られる。35歳で隠居後も政務を補佐し、米沢織・米沢鯉・深山和紙など鷹山公の興した産業は現在に伝承されている。
末社 春日神社
今から千年程前、越後の国司として派遣されていた藤原遠成が、領内の平和を祈るため、上越の春日山頂に、奈良の春日大社を分霊したと伝わる。
藤原氏の流れを汲む上杉氏も代々春日社を敬い守り、藩主の移封と共に、会津から米沢へと移った。江戸時代は林泉寺境内に鎮座していたが、明治を迎え神仏分離により、上杉神社に移された。
減封を続けた上杉家は藩の財政が苦しく、9代藩主鷹山公が再建を願い、春日社へ誓詞を奉納されたことは有名である。
1872年(明治5)に現在地へ移った春日社は、1919年(大正8)の米沢大火により上杉神社と共に類焼し、松岬神社に合祀された。1981年(昭和56)、市民の浄財により再建され今日に至る。
- 例祭/9月第4日曜日
末社 福徳稲荷神社
当社は、享保年間の6代藩主宗憲公時代(1722~34)に、城中二の丸に一社を建て、城内守護神として祭祀されたことに始まる。
以来歴代の御崇敬が篤く、1977年(明治9)には、9代藩主鷹山公の御信仰の篤かった三の丸稲荷祠を合祀して、上杉神社境内に移し、末社とした。1920年(大正8)の米沢大火で上杉神社本殿は炎上したが、稲荷社だけは火難を免れ、上杉神社再建の後、1923年(大正12)に現在の位置に遷座した。その後信心の篤い人々により福徳講が組織され、篤信者の賛助を得て、1937年(昭和12)に社殿を改修。同年拝殿増設、正面左手には奥の宮、市杵島弁天宮がある。(下記に霊験記)
- 例祭/7月30日 月次祭/毎月9日
- 初午祭/毎年旧初午の日
- さいと焼き/1月15日
【霊験記】
7代藩主宗房公(1734~1746)の時に、将軍家から鶴を拝領した。早速その御請書を飛脚に託して江戸に向かわせたが、清書と案書を取り違え、措置に窮した時、御城代(御家老)の岩井氏による飯縄の修法にて、城内に住む白狐に託し、大難を逃れることができた。翌日夕方、神使白狐は無事戻ってきたが疲労困憊し哀れにも力尽きてしまった。その遺骸は、この稲荷祠に納め奉られた。